ライ王のテラス

今日は初めて赤坂に行きました。


いや~、赤坂って場所は凄いわ。この溜池山王駅から出た場所からしてオシャレ。
街並みや人波がファッショナブルな雰囲気で、ホントこんなところにいてごめんなさい、みたいな気持ちに駆られてしまいました(;´Д`)

で、そんなところに何をしに行ったのかと申しますと、これを観に行きました。

「ライ王のテラス」です。


鈴木亮平さん主演の舞台。
そしてもうひとり好きな人、中村中さんが出演されるという事もあってチケットを入手。
今回参戦しました。
全く三島由紀夫さんのことも、この作品についても予備知識がなく、まっさらな状態での観劇です。そういえば僕、見てきた舞台はほぼすべて予備知識を入れた事がないわ。
映画とかも観る前に予告編見たり、原作読んだりとかは(その原作のファンでなかった限りは)全くしたことがありません。


今回のお話は三島由紀夫により最後の戯曲。彼がカンボジアを訪れ、構想を具現化したもの。当時に解釈されていたアンコール王朝やジャヤヴァルマン7世の歴史を基に彼の思想や解釈をふんだんに盛り込んだものになっているとか。


ジャヤヴァルマン7世にとっての「絶対の愛としての相手は蛇神の娘」であり、「信仰はバイヨン」であること以外のあらゆるものは、いわばどうでもよい相対的存在にすぎなかった。長い戦から勝利をおさめて帰ってきた王は、この勝利は御仏と民の力であると説き、アンコール・ワットに引けを取らない寺院を建立しようという。
しかし、その絶対の愛は地上の女である「第一夫人」の嫉妬や「第二夫人」の貞淑によって地上の愛に犯されていく。そして「バイヨンの建立」も地上の政治によって邪魔されていく。そんな中、王は病に侵され、それはどんどんと進行していく…という「王」の運命を描いている。

僕は、このジャヤヴァルマン7世という人物が凄く生々しく映った。
目つきは鋭く、バイタリティに溢れ、雄々しいジャヤヴァルマン7世は圧倒的だ。
でも、彼は幼少の頃は内省的だったことがうかがえる。
彼は信仰によって自分の未来を創造し、それに向かって生きてきたのだろうと僕は想像した。自分の中にある絶対的なものを築いてしまった彼を、民や夫人たちにとってはその美しさと若々しさと強さに魅かれていく存在だったのかもしれないが、彼には他の者たちの心を読み取る事は出来なかったのではないかと思う。
自分の絶対的なものを与える事こそ、民の幸せであり、婦人たちの幸せであると思っているのだろう。まあ、王という存在の「らしさ」と言えばそれまでなのかもしれないけど。


そして夫人たちの心、宰相の企み、王太后の心、これらが王の心と複雑に絡み合う。
まあ、絡みついていくのは彼等の方であって、王の心と触れる事はあったとしても、交わる事はない。そこにある妬みや嫉妬、悲しみ。そしてそれらが彼等をひた走らせる。
この戯曲を描いた三島由紀夫は、王は「絶対病」に憑りつかれていた。身体の病による悲劇なのではないと。

王は自分の「絶対的なもの」への思いの強さに縛られていたのだろう。
それは戯曲の中で彼の精神世界を具現化した寺院建立への思い入れの強さになって表れている。その具現化のために周囲の人間はいるに過ぎない。
でも実際はどうだろう。彼はその思いや信仰、絶対的な愛のために周囲からの言葉や想いを遮り、憎しみや悲しみをぶつけられ、病に侵され、心も蝕まれていった。そばにいる人を失ったり、傷つけたりもした。
それを良しとしてきた、しようとしてきた彼の精神は本当に満たされていたのだろうか。
最後は肉体と精神がせめぎ合い、ぶつかり合う。衝撃的なラストだった。上手くそれは表現できないし、答えも正直わからない。
この戯曲が表現したかったものが何だったのかと聞かれたら、僕は人の心の本質はいったいどこにあるのかを考えさせる事ではないのかと答えると思う。
そこに明確な答えはないし、どこに自分の心を置いて、どう生きていくのかは人それぞれだ。ただ、僕はこの王を見てだんだんと悲しくなっていってしまった。

それでは、それ以外にもつらつらと。
今回、赤坂ACTシアターには初めて行ったのですが、2階席は本当に見やすかったです。
そのぶん、高所恐怖症の自分には怖かったのですが(笑)。
2階の真ん中くらいの席でしたが、本当に全体が良く見渡せました。演出の問題だとは思いますが、全体的に暗い照明の使い方だったので、シーンがつかみにくいところはありましたが、舞台全体を使った、プロジェクションマッピングの演出やカンボジアの芸術の歴史を体現したパフォーマーの素晴らしさや影絵を使ったその舞踊は、耳なじみのない不思議な旋律の音楽とともに独特な雰囲気を醸し出してくれました。

そして演者の皆さんの存在感、その魂のこもったセリフ回しにも圧倒されました。

鈴木亮平さんの登場からのエネルギーに満ち溢れた存在感は王そのものであり、威厳に満ちた若い王のみなぎるパワーに圧倒されました。そこから病に侵されながら人の心に惑わされながら、それでも信仰と自分の病をなぞらえ、己の存在意義と寺院の建立の意義を見出していく姿に切ないものを覚えていった。流石の一言だった。

そして第一夫人を演じた中村中も圧巻だった。そして第二夫人の倉科カナさんも存在感を放っていました。彼女がこれほど舞台映えするとは知らなかったなぁ。
この作品で描かれる女性像はみんなどこか屈折しているというか、不器用というか、そんな感じの方ばかり。王太后もある意味「絶対病」だなと思うし。彼女は自分の美意識や存在意義に凄くこだわりがあり、王を生み育てた自分に誇りを持っていた。王こそが自分の意義であり、希望だった。最後にはその呪縛から解かれたようだけど。
そして二人の夫人は表裏一体。王からの愛情を身も心もすべて捧げ合う愛が欲しいふたりは、一方はその欲望や嫉妬心を露わにし、もう一方は静かに王に従い、王を受け入れていく慈愛に満ちた女性になる。
この二人の対比が女性の業の深さを見事に表現している。
二人が第一夫人の部屋で交わす会話は互いを時に否定しながらも、腹を割って話していくうちにシンクロしていくのが分かって面白かった。

アフタートークショーがあったので、参加したのだが
様々なエピソードが語られていった。だいたいの事はなぜかパンフレットを読み直しながら思い出せる話ではあるのだが(笑)、宮本亜門と鈴木亮平の不思議な縁のお話にはジンとくるものがあった。人との繋がりはその人たちが生きていく姿勢や選んだ道のりの中で必然的に訪れるものなのではないかと強く思わされた。
そして鈴木亮平の役者魂、なんでも心を真っ直ぐに置いて楽しみながら作り上げていく宮本亜門。この二人の男のカッコよさにしびれるアフタートークになった。

夜勤明けで寝ずにやってきたのだが、本当に観に行ってよかった。
帰るときにはもう夕暮れ時だったのだけど、時間の長さを感じることなく
すべてに夢中になって見入った。
今後の再演も期待したいものである。うん。

Waguri's Staff Blog

J-POPアーティスト、和栗卓也のスタッフによるブログです。和栗卓也の話以外もいっぱい書くほぼ私的なブログ。